さて。マガー連合公国で、カルナ・カリナンが、兄のミハイルと押し問答をしていたその頃。
西のドリュアス帝国では、第一皇子――実質、既に皇帝――のシーヴァー・ドリュアスが本気で困っていた。
今、シーヴァーがいる場所は皇宮からそう遠くない、エルダ大神殿の「控えの間」である。
代々ドリュアス皇帝となる者は、この神殿で妃のひとりを迎える「エルダの儀」を行う。
建国以来の伝統であり、エルダの儀を行わない者は、皇帝として戴冠することができない。
これからまさにそのエルダの儀が始まろうとしており、好きも嫌いもなく、必ずやり遂げなくてはならないものなのだが……
しかし、である。
シーヴァーとは別の椅子に、少し離れて座っている妃となるはずの相手の様子がどうもおかしいのだ。
明らかに望んでいない、嫌がっているとわかるほどに。
そもそも彼女はひとりで付き添いもいない。
今のエルダの儀の妃は、下級貴族か、魔法士なら平民の女性でも良いとなっており人選はまかせたはずだ。
むろん「希望した女性の中から」という条件をつけた。
その結果がこれである。
(なんで嫌がる令嬢(ひと)を選んでいるんだ……?)
シーヴァーは、少しばかり腹が立った。
しばらく考えたあと、
「クリス、ひょっとして全員が俺との結婚を嫌がったのか?!」
俺は自惚れていたのかもしれない―――と背後に控えている護衛の騎士の青年相手に、大まじめに言ったのを、
「バカなことを言わないで下さい。俺が、あなたを護衛する女性騎士の人選に、どれほど苦労していると思っているんですか?」
砕けた口調は、シーヴァーが平民だった頃からの友人ゆえだ。
「そ、そうか」
シーヴァーはほっとした。すべての女性に好かれようとは思っていないが、全員に嫌われているのはさすがに傷つくのだった。
「じゃあ、なんでだ?」
「あってはならないことのはずですが、手違いなのでしょうね」
クリスは、ちらりと横目で少女を見る。
「はぁ?なにをやっているんだ」
天下の中央政府の役人が―――とシーヴァーは呆れたものの、このまま待っていても事態は好転しないと判断し声をかけた。
「少し、いいかな?」
「あ、はい」
ようやく顔をあげた。不安げで真っ青で、今にも泣き出しそうである。
15、6歳というところか。はじめて見る顔だ。
「君には私と結婚する意志がないように見える。希望した女性の中からと言っておいたはずだが、君は希望したのかな?」
真っ青になり、椅子から飛び降りて、ひれ伏した。
「お許し下さい!私は魔法士ではございません!なぜこんなことになったのか、私にもわからないのです。私はグリに…いえ、グリエルモに会いにきたはずなのに……」
「グリエルモ?」
はてとシーヴァーは記憶を探り、15、6歳の少女、グリエルモのキーワードに、
「まさか…君は、グリエルモと結婚の約束をした人か!?」
シーヴァーは反射的に立ち上がり、椅子が派手な音をたてた。
少女はびくっとなり、平伏したまま両目から涙がポロポロと溢れる。
これぞ無言の肯定である。
(冗談だろう……!)
近いうちに魔法士長が高齢により引退し、副魔法士長のラウルス・ラムが長に昇格する。
次の副魔法士長として、ラウルスから強い推薦があったのが、17歳のグリエルモであった。
「魔力の高さも才能も、私を凌駕(りょうが)します。できるだけ私の側に置いて経験を積ませたく存じます。ただ本人、実に純な少年でしてね。副魔法士長になったら、幼なじみの彼女と結婚できなくなるのではと心配しているのですよ。彼女を家族に迎えてくれるのが条件と申しますので、近いうちに婚約させようと思います」
「ほう、それはめでたい。しかし最近の若者はしっかりしているなぁ。俺が17の時なんて結婚なんて考えられなかった」
「いまもでございましょう。さすがにお気楽すぎるかと」
「俺より年上で独身のお前に言われたくないね」
と、ラウルス・ラムとそんな会話を交わしたのはつい最近のことである。
(……どうしてグリエルモの恋人が?いったい誰が……)
聞きたいことは山ほどあるが、今はそんなことを悠長に聞いている時間はない。わかっているのは、彼女とは「絶対に結婚できない」ということだ。
「クリス。お前の部下のひとりを彼女につけてやってくれ。ラウルスのところへ送り届けろ」
シーヴァーはさっさと決断し、行動にうつすことにした。
「かしこまりました」
反論はしない。こういう時、付き合いの長いクリスは心得ている。
昔からシーヴァーは時間が1分あれば「まだ1分もある」と考える人だった。
その1分を口を動かすことに使い、動こうとしない部下こそ、シーヴァーをもっともイラつかせることだ。
「ですが、この部屋ではさすがに魔法が使えません。建物の外に出られれば、転移魔法で皇宮か魔法士の塔まで飛ばせますが」
クリスの言葉にシーヴァーは窓辺に歩み寄り、大きく開かれた窓から身を乗り出す。下には中庭が広がっていた。
「お前の風魔法で、俺たちをここから下までおろせ」
できるだろう―――とにこやかに言ったシーヴァーに、
「本気ですか!?」
「本気だとも、律儀に扉から庭に行こうとして、出くわした奴にいちいち引き留められたり説明するのも面倒くさい。そんなのは事後で十分だ」
「か、かしこまりました……」
こういうところも他の皇族とは違うところだ。
そして、
「彼女はお前が抱えろ。護衛の騎士のお前が触れるなら問題ないが、俺が触れたらグリエルモとの仲がこじれそうだからな。自分の彼女が世界一可愛いと信じているような奴だ。今後、俺が彼女のことを訊ねるたびに、俺に手を出されるんじゃないかと気が気でなくなるだろうよ」
こういうところも、他の貴族とは違う。
貴族社会は、人間関係がギスギスしやすい社会である。
なまじ権力(ちから)を持っているだけに、思い込みの悩みや不安が取り返しのつかない事態に発展しかねない。
そのため貴族達はわざわざ細かい作法をつくり、誤解や感情の衝突を回避しているが、シーヴァーには、こうした作法の勉強は不要だ。
というより、19歳まで多くの人と出会い、様々な感情にふれて生きてきた中で自然と身についている。
既に「心」ができているから、皇家に戻って作法を学んだ時も、
「いやーこんな便利なものがあるとは知らなかった。これなら相手がどんな奴だろうが同じ対応ですむ。本当に楽だ」
と発言し、教師を驚かせたものだ。
「それでは失礼いたします」
クリスは、窓枠に座ると、二人に両脇に座るよう促(うなが)す。
簡単に動いたシーヴァーとは違い、少女はためらった。
「あの、グリ…いえ、グリエルモから、こうしたことは自分が許可した時以外、してはならないと言われているものですから……」
「なるほど。グリエルモは正しい。自分の力を過信した魔法士が、魔力のない者を抱えて飛んだあげく、事故がおきる時もあるからね」
シーヴァーは微笑んだ。
「だが、彼は私の護衛騎士で帝国でも屈指の風魔法の使い手だ。彼は君を安全に下まで送り届けること私が保障するよ」
「は、はい。わかりました」
少女はシーヴァーとともに窓枠に腰をかけ、
「怖いなら目をつむってください」
その言葉に、少女はクリスの腰のあたりに両手を回しぎゅっとしがみついて目をつむった。
クリスに彼女を任せたのは正解だなと思いつつ、シーヴァーのほうは慣れたもので、クリスの肩を軽く掴んだ程度である。
クリスは、少女の肩を左手で軽く掴み、シーヴァーの背中に右手を回すという「両手に花」状態で、いったん上に身をふわりと浮かせ、ふわりふわりと優しく下まで降りていった。
やがて少女はおしりが地面に触れたのを感じた。
「到着しました」
拍子抜けするほど簡単に、短期間に到着したことに驚きながら、少女は目をあけ、クリスから身体を離し立ち上がった。シーヴァーは、パタパタと服についた土を払いながら、
「今日はずいぶんと安全運転だな、クリス」
「怖がっている令嬢が一緒だから、仕方ありませんよ」
「ほう。俺なら怖がらせてもいいと思っていたのか。はじめて知ったぞ」
いつも猛スピードで急降下。子供の頃から絶叫マシンかお前はと叫びたくなったことは、一度や二度ではない。
「よし。覚えた。今度から、安全にゆっくり進めと言うからな」
「かまいませんが必要以上に要求するのは勘弁してくださいよ。これは調整が面倒なんです」
最高に難しいことを「面倒だからやりたくない」程度であるのが、帝国屈指の風魔法の使い手の証である。
「わかるとも。だが必要な時はやらせるよ」
悪魔の笑顔を見せたシーヴァーにクリスは後ずさりし、
「……ひょっとして快適な空の旅とか考えているんじゃないでしょうね?『天翔(あまかけ)る車』を動かしてみようとか」
図星だったのかシーヴァーは目をそらした。
「いや、無理です!無理ですって!魔法と精霊の力は違います」
『天翔(あまかけ)る車』は皇家所有の、風の精霊達が動かす空飛ぶ乗り物だ。ドリュアス皇帝はかつてはこれに乗って各地を巡幸したという。
200年前、マガーの崩壊とともに精霊達はどこかへ行ってしまい、天翔(あまかけ)る車は動かなくなった。
今は皇宮の片隅に、ひっそりと保管されているだけだ。
「そうか。残念だな…」
各領国で暮らす帝国民は、皇帝の姿を見ることもなく、生涯を終えるものが圧倒的に多い。
「昔は皇帝陛下がここへいらっしゃったんだ。俺の先祖は話をしたことがあるそうだ」
そんな話を大切に子孫に伝えてきた人々が、帝国各地にいることをシーヴァーは知っている。巡幸を復活させることができるものなら、復活させたいとシーヴァーは思っていた。
それにしても200年前、マガーの崩壊とともに帝国から失われてしまったものの、なんと多いことか。
ご近所ではなくなった精霊使い達が、ドリュアスに協力してくれることもなくなった。もしジスティナ妃が魔法を遺してくれなかったら、どうなっていたことやら。
そんなことを考えているうちに、クリスの部下のひとりが駆け寄ってきたのが視界に入る。クリスが呼んだのだ。
ちなみにクリスが所属する第二騎士団は全員が魔法剣士であり、それゆえ帝国最強の騎士が所属する騎士団と言われていた。うち、白い騎士服の「シルバーナイト」と呼ばれる12名がシーヴァー直属の騎士である。
「帰っていいよ。今は名前をきかない。ラウルスとグリエルモを通し紹介される日を楽しみにしている」
「ありがとうございます。お礼の申し上げようもございません」
ありがたさと情けなさと恥ずかしさで顔も上げられなくなった少女に、
「いいさ。とりあえず魔法士長代理のところへいき、何があったのか彼に話をしておいてくれ。シルバーナイトが君を送り届けた、これがどういう意味なのかラウルスならわかるはずだ。彼は君の味方になってくれるだろう」
少女はもう一度礼をいい騎士に肩を抱えられると、魔法陣が出現し光を放った。
「ところで、こうなった原因は誰なんだ?間違っていてもかまわない。むろん本人に君が言ったと話すこともないよ」
少女は記憶をさぐるように視線をさまよわせたあと、
「……アデリーナ様」
まっすぐとシーヴァーを見て言い、騎士とともに姿を消した。
「ほう…」
さすがグリエルモの想い人―――シーヴァーは彼女を気に入った。
誰もが聖女のごとく慎ましく優しいと称える、あの女の名をあげるのは勇気がいることだ。
心の底で「まさか」と疑っていても、我が身可愛さから口には出せぬもの。
信奉者どもに「アデリーナ様がそんなことをするはずない!」とヒステリックに反撃されること目に見えているからだ。
「クリス、どう思う?」
「おそらく正しいのでしょうね。今度はなにを企んでいるやら。相変わらず理解できないひとです」
「あの女がやることを理解しようとしても無駄だぞ、クリス。帝国を滅ぼすために利用できるものはなんでも利用してやると思っているだけの奴だからな」
「それですよ。なぜ帝国を滅ぼそうとするのかがわからないんです。帝国はドリュアス大陸の別称にすぎません。帝国が各国を支配しているわけでも権力を持っているわけでもない。帝国を滅ぼしても何も手に入らないじゃないですか」
シーヴァーはしばらく考えたあと、
「……案外、人間じゃないのかもしれない」
とぽつりとつぶやいた。
「は?」
「……だってなぁクリス。人間、数十人もいれば目指すものが違ったり、考え方が違うのは当り前だ。意見や考え方の相違は隠す必要もないことだよ。たとえ帝国は滅ぶべきだという考えであっても、それが今よりよりよい世界になると信じているなら、賛同者を増やすための活動ぐらいする。ところがあの女は常に隠している。崇拝者は賛同者などではなく全員が騙されている連中だ。なぜあの女はあそこまで隠す?それはあの女の考えを知ったら、誰であろうと必ず敵になることを知っているからじゃないのか?すべてのドリュアス人を敵に回す考えとは何だ?生まれも育ちも考え方も性格も違う俺たち全員に共通するのは、人間であることぐらいしかない」
思いも寄らぬシーヴァーの考えだった。
「……アデリーナは人族(ひとぞく)ではない、別の種族だと……?」
絶句したクリスに、
「邪推だがね。さて、そろそろ部屋に戻ろう」
今考えても仕方がない―――シーヴァーがクリスの肩に手をかけようとした時だった。
背後からふわりと風が流れてきた。
「?」
振り返ったときである。
突如、見えぬ彼方から、強い風が吹き抜けてきた。
「皇子!」
強い風の中、クリスが、シーヴァーの側へ駆け寄りその前に立つ。
自然の風ではあり得なかった。
あまりにも強すぎて、思わず目を細め、シーヴァーは片手で顔をかばった。
シーヴァーは目を細めて狭まった視界から、風に乗って何かがやってくるのを確認する。
クリスはシーヴァーを完全に自分の身体の影に隠し、暴風の中剣を抜く体勢をとる。絶対に斬る!そう誓いながら。彼の優れた視力は、それが人であることを捕らえていたのだ。
だが幸運にも、斬ることにはならなかった。
風はゆるやかに弱まり失速し、シーヴァーの目の前――正確にはシーヴァーの前方に控えていたクリスの目の前に、「それ」は落ちてきた。器用に空中でくるんと一回転し、ひらりと軽やかに地面に着地する。
「……あんの、バカ兄っ!」