スコールは執務室で夜明けを迎えたところだった。椅子にすわり、徹夜明けの重い頭を少しでも回復させようと目を閉じている。
リノアが消えて依頼、スコールは家に帰らず、省にいた。執務室の隣のシャワー付きの私室にはすべてそろっている為、不自由はしない。
最低限に眠る以外は、ずっと仕事に明け暮れていた。心の虚空に気づきたくなかった。仕事に没頭している限り、忘れられる。
「閣下、おはようございます。コーヒーお持ちいたしました」
マドリーナが入室してくる。
「ありがとう…・はやいな。まだ、7時前だぞ」
コーヒーカップを持ち、一口すする。
「昨日の休日は、なにもすることがありませんでしたから。早く眠った分、早く目が覚めたのです」
「なるほど…・」
椅子を回転させると、ガラス張りの窓ごしに景色が映る。最上階であるため、眺めは素晴らしかった。バラムの美しい海が遠方に広がっている。
「お悩み事でもあるのですか?家にもお帰りになりませんし、心配ですわ」
スコールは、笑う。リノアに向ける笑顔とは違い、何年も前に覚えた公務用の笑顔である。
「なにもない。ところでマドリーナ、今日は朝礼があったな?」
マドリーナは肯定する。
「と、いうことは、国務大臣がみえるな。到着は何時だ?」
マドリーナはスケジュール表を開く。
「いつも8時頃ですから、今日もそれくらいでしょう。クロムェル将軍もお見えになりますが」
「そうだった。忘れていた」
クロムェル将軍。スコールの上司で国防省のナンバー2である。事実上、国防省の責任者のはずなのだが、長い間、平和を保っているバラムであるから仕方ないとはいえ、実戦経験は一度もなく、世渡り術とコネのみで出世した。現在も実務はすべてスコールに押し付け、講演やら、パーティやら、人脈を築くことに忙しい。ひそかに政界デビューを狙っているとの噂だ。
「9時から午前中いっぱい幹部会議です。午後からは……」
マドリーナの報告をガラス越しの景色を眺めながら無表情に聞く。
「閣下。国務大臣がお見えです」
扉の向こうの声に、スコールは軽く驚いた。
「お早い到着だ」
不思議に思いつつ、立ち上がるのと、扉がひらくのと同時であった。
秘書の一人に案内されて、国務大臣が姿を表した。
「やあ、おはよう。二人とも」
型どおりのあいさつをかえす。
「どうなさいましたか?このように朝早く?」
「今日は朝礼だろう?どうせ来るのだ。その前に少将に話があってな」
「私にですか?」
コーベン国務大臣はソファーに座り、遅れてスコールも座る。
「少将。今、省内の噂を知っているかね」
スコールは、得心がいった。
「ああ、あれですか?私とマドリーナがどうの、とか…」
コーベンは頷いた。
「そうだ。こういった噂は困るのでな。前にも言ったが君は注目されておるのだ。マドリーナは私の姪だ。一族のスキャンダルは困る。政界とは、どのようなことでも、弱点と見れば、攻撃しにかかるのでな。政敵に隙を作るわけにはいかないのだ」
「わかります。ですが、噂は噂でしかありません。力で抑えようとすれば、ますます歪曲した噂が拡大するだけだと思いますが」
ドアが開き、秘書がお茶を持ってきて、テーブルの上に置いた。退出を見届けてから、コーベンは声を潜める。
「少将。姪とホテルへ行ったという噂は本当なのかね?」
「まさか。大臣を見送った後、ホテルのロビーで明日のスケジュールの打ち合わせしただけです」
コーベンは立ったまま、二人の会話を聞いているマドリーナを見る。姪にスコールの隣に座るように命じる。マドリーナは従った。
「少将、見るがいい」
二人の前に雑誌を放り投げる。スコールは無表情に内容を読んだ。スコールとマドリーナの記事らしい。ご丁寧に写真付きで載っている。
コーベンは二人の顔を見比べた。
「マスコミは既に動きはじめておるのだ。君達が打ち合わせとはいえ、深夜のホテルへ入ったのは事実なのだ。それだけで格好の材料になるのだよ。あとは大衆の好奇心をくすぐる話を、面白く可笑しく想像するだけだ。わかるかね。騒ぎが大きくなる前に手を打ちたい。自慢の姪が攻撃されるのは耐えられん。君にとってもプラスにはなるまい。そこでだ…」
コーベンはお茶を一口啜る。
「…本当に結婚する気はあるか?私が言うのもなんだが、姪はいい娘だと思っている。君の仕事でもなにかと助けになるだろう。どうだ?」
なるほど、資料室の職員が言っていたとおりになった、というわけか。スコールは大きくため息をつく。
「心配してくださるのは有難いです。ですが、私にはその気は、ありません。お断りいたします」
スコールは、即答した。コーベンは大げさに首をすくめる。
「なぜだね、君にとってもよい縁だと思うがね」
「…そうですね、もったいないとは思いますが、やはり、お断りいたします」
半分は社交辞令である。本当は、もったいなくなどなかった。スコールには、バラム少将の地位などどうでもよかった。スコールが、決して失いたくない地位は、ただ一つだけ、もっと別のものだった。
コーベンは椅子の肘を掴んだ手の指先を、トントン鳴らす。マドリーナはスコールから見えないように顔をゆがめる。ここまでお膳立てしてなぜ、断るのか。なお、同棲中の女に義理立てしているのだろうか。マドリーナには、スコールが同棲中の女を愛している、と思ってはいない。サリサ同様、愛しているならとっくに結婚しているはず、と思っている。また、マドリーナは何よりも「地位」に重きを置く女性だった。国務大臣の姪より、名も知らぬ女を選ぶ可能性をまったく考えていないのだ。自分と違う考えの人間がいることを、想像できないあたり、性格が似ている、とサリサが自ら宣言する理由だろう。
「では、少将。どうする気だね。このままではスキャンダルは広がる一方だ。どやって鎮圧する?私の政治生命を奪う気かね」
スコールは覚悟したように、考えを伝えようとした、その時。
「離してよ!スコールに会うんだから!んー、もう!しつこい!」
スコールは耳を疑った。懐かしい声だった。そう、本当に久しぶりだ。あんな心のままに言う怒鳴り声を聞くのは。
コーベンもマドリーナも廊下の外の騒がしさに気づく。重い何かが壁にぶつかった音がした。
「人の恋路を邪魔するからよ!私は、スコールにプロポーズするんだから!邪魔しないでよ!」
ずかずか廊下を歩く音。スコールの心から今まで抱えていた不安がひとつずつ矧がれ落ちる。
「なんだね、一体」
コーベンが思わずソファーから立ち上がった。
「…また誰かが少将に会いに来たのでしょうが…国務大臣の前でお恥ずかしい限りです。注意してきます」
マドリーナが厳しい顔で部屋を出ていこうとしたのと、悲鳴が聞こえたのと同時だった。
「い、痛い…痛いじゃないのーっ!やめてよ」
ドアを開けたのは、スコールだった。彼のほうがマドリーナより1秒ほど早かった。
スコールが開け放ったドアの向こうに、リノアはいた。リノアより3倍も太い腕を持つガードマンが、リノアの背後から彼女の長い髪の毛をわしづかみにして、有無を言わせず。もと来た道へ力にまかせに引っ張っていく。ガードマンにしてみれば不埒な侵入者に手加減する必要などない。それは、わかる。だが、見た瞬間、スコールは、頭に血が上った。
「離せ!!」
ほとんど反射的である。リノアの細い首が折れてしまう、と本気で思った。日頃、触れるだけでもそう感じているのだ。この光景が許せるはずもなかった。
ガードマンはスコールの姿を見つけ、手を緩める。苦痛から解放されたリノアは、視線を上げた。
「あ、スコール…」
リノアは目当ての人を見つけ、やわらかくて優しい、輝くような笑顔を見せる。
それを合図に、スコールは数日間、抱え込みたくもないのに、抱え込んでいた大半の思いが解放され、消えていくのを感じた。
これより、ほんの少し前、リノアは一瞬でバラムに到着した。移動した先はバラムの家である。スコールはいなかった。荷物を置くと、再び移動した。今度は国防省の前へ来たのだ。スコールの執務室まで瞬間移動できないこともなかった。この時間、まだ職員は出勤していないとはいえ、部屋には誰がいるかわからない。そんなわけでリノアは職員口から入り、エレベータに乗り、最上階を目指したのだった。
やはり、というべきか、前と同じ受付の人は、まだ懲りてないのか、と通してはくれなかった。
強請するようなのが嫌でIDカードすら使わなかった前回とは違い、スコールと自分の関係を言ってみる。だが、信じては、もらえなかった。
「お願い、私、スコールにプロポーズしなきゃいけないの」
嘘を付いても、見破られる、と感じているからこそ、正直に言った。スコールが、リノアのような娘にさえ、簡単に騙されるような女性を、受付に選んでいるとは思えなかったのだ。
だが、受付の女性、ティアは信じるどころか、ますます、拒絶した。
「おおかた少将とマドリーナさんの噂を聞いて自棄を起こしたのでしょうけど。マドリーナさんは、少将にふさわしい、すばらしい人よ。かわいそうだけど、あなたがかなう人ではないわ。ああいう外見しているせいで、いろいろ想像するかもしれないけど、少将は、お厳しい方よ。会っても、優しくしてくれるとは思えないわ。だから、あきらめなさい」
ティアの言葉には誠実さがこもっている。いい人だな、とリノアは思った。
信じてもらえないのは、もっともなのだ。恋人ならわざわざここへ来て、プロポーズする必要などない。プライベートで会った時に、言えばいいのだ。というよりそれが常識だろう。それを自覚しつつ、夜まで待てないリノアだった。約束を忘れていたのは自分だ。せっかく思い出したのに、それでも待って、駄目になった時は悔いが残る。思い出した今は、1秒だって待ちたくなかった。それで駄目なら、今まで忘れていた自分が悪いのだがら仕方ない、と諦めもつく。
だから、リノアは、ティアの忠告を無視して内部に入り込んだ。ティアが、あわてて叫び、ガードマンを呼んだと言う事がわかっても、引き返せなかった。たくさんある部屋のひとつひとつの内部に意識を集中させ、スコールの気配を探した。見つけた、と思った瞬間、ガードマンに捕まってしまったけれど。ドアの向こうからあらわれたスコールの姿を見つける。
心に翼が生え、体が軽くなった。スコールの一喝にひるんたガードマンを自力で振り払い、リノアは、迷うことなく、スコールに駆け寄り抱きついた。